戦地より弟へ
コロナが落ち着きを見せているので、母がひとりで暮らす実家へ、子ども達を連れて帰省した。
リフォームをして、家がきれいになったとかで、母はご機嫌だった。
大量にあった本は、かなり処分して半分ほどになっていただろうか。
残してあった本の中に、父方の祖父が書いた原稿を、叔母が自費出版した本があった。
母にとっては舅が書いたもので、特に仲が良かったわけでもなく、何の思い入れもない本だが、捨てるのはさすがに躊躇われたようで
「欲しかったら持っていっていいわよ」
とのことで、持ち帰り読んでみた。
家系を辿る内容で、なるほど血縁がない母にとっては、全く興味のわかないものだろう。私は自身のルーツを辿る内容だったので、まあまあ楽しめた。
しかし、本の内容よりも、そこに挟んであった、手紙のコピーの方が、とても興味深かった。
5人兄弟の末っ子であった祖父に宛てて、すぐ上の兄が戦地から送った軍事郵便のコピーである。
検閲済みの判子、決められた用紙に小さな文字でビッシリと書かれた手紙が二通。
自分のことは案じないでくれ、もし遺品が届いたら皆で分けてくれ、本は全て(祖父に)寄贈するといった内容の最後に
日本男子死ぬは此の秋
と書かれた1通目。
2通目も同じく、こちらは心配ない、といった書き出しから、祖父の大学卒業を祝う言葉、身体が弱く、病気で休学を繰り返していた祖父を気遣い、闘病中、殆どかまってやれず、一人病室でどれほど心細い思いをさせたかと思うと、胸が苦しくなる、本を持ってきてくれと頼まれたが、いつも忘れがちで、待ち侘びていただろうに酷い兄であった、自分の本は全てあげるので、持ち帰ってくれと、1通目とほぼ同じ内容を、さらに細かい文字で書き連ねてあった。
祖父は、上4人の兄とは少し歳の離れた末っ子で、身体も弱かったので、家族全員で甘やかして可愛がられていたらしいと、父が生前話していたのを思い出した。
この手紙を書いた兄は終戦まで生き延び、シベリアに抑留されたものの、その後無事に帰国した。
5人兄弟は揃って戦争を生き延び、たまに集まっては思い出話に花を咲かせたそうだ。
今はみんな亡くなってしまった。
ただ、戦地からひたすらに、弟を気遣う兄の気持ちだけ、残されていたのである。
一周忌
先週、
父の一周忌だった。
もう一年たったのか。
父が亡くなった時は幼稚園児だった末っ子は、父のことを、あまりよく覚えていないらしい。
そうかもね。
いま、家中の片づけをしている。
いらない物を片っぱしから捨てまくる、断捨離のような感じだ。
救急車のオモチャが出てきた。
父が子供たちに買ってくれたオモチャ。
元気だったころ、日帰りで遊びに来た父が、公園に子供たちを連れて行ってくれたことがある。
その時、よその子が持っていたオモチャを、うちの子供たちが「いいねえ、ほっしい(欲しい)ねえ」と繰り返し言うものだから、買ってくれたのだ。
「これは、ジジとしては買ってやらんと」
笑顔でそう言って、買って来てくれた救急車。
これは捨てられない。
親って何
私の長男と次男は、私が産んだ子供ではない。
子供が犠牲になる、痛ましい事件が起きるたび、実親か、義理親かがしばしば問題となり、やっぱり義理親かとか、実親なのに何故とか、そんな話をネットで見る。
実の子と、義理の子は違う。
私の感覚だと、オムツを替えたか替えてないか、下品な話だが、要するに最も無防備な状態で、全てさらけ出してタマのシワまで拭いた子と、お風呂やちょっと失敗したトイレの手伝いをした子では、色々な部分で、遠慮する範囲が違う。
自分の老後や死後の、面倒事。
これを義理子にさせるのは気が引ける。
上の子はもう成人したので、親権もクソもない。自分が誰を親と思うのも自由だし、それを誰かに告げる必要もない。一人の人として、自由になったんだよ。
ただ、何かに疲れたり、帰ってきたい時は、帰ってくればいい。
義理とか実とか、それ以前に、全ての大人は、全ての子供を守る義務があるのではないだろうか。
長男二十歳の誕生日に三男の言葉をおもう
今日は長男の誕生日、ついに二十歳、成人になった。
なんだか夢みたいだ。
進学のために家を出て二年、あの甲高い声でニコニコおっとりと話をしていた長男はいなくなり、低い声で言葉少なく話す、でかい兄さんは今、学業にアルバイトにと忙しくも充実した日々を送っているのだろう。
ねえ、子供が成人したよ
父に報告したかった。直接。
五男の入学式の時にも、同じ事を思った。
何か節目のたびに、おじいちゃんがあと少し生きてたらって思っちゃうね
それを聞いた三男が
そうだけど、それだと次々にあと少し、あと少しって、ずっと生きてなきゃいけなくなっちゃうよ
聡い子だ。
長男に似て、がっしりした体格と、弱く見えるほど優しい心の三男。一番のおじいちゃん子だった。
父はいなくなって、子供たちは成長し、私も老いる。ずっと生きることはないのだね。
父と孫
父が亡くなって、もうずいぶんと経った。のかな?
もうすぐ半年たつのだが、もう半年なのか、まだ半年なのか。
まだ何かの拍子に思い出して、涙がでる。
それを子どもに見られて、心配をかけてしまった。
3年生になる息子が、家族の作文でおじいちゃんのことを書いた。
ぼく、おじいちゃんのこと書きたい。
そう言ったこの子は、父に一番懐いてた子で、おかあさんより先にジーチャンという言葉を喋ったくらい、おじいちゃんが好きだった。
ああ、この子がピアノでワルツを弾いた時に、父がとても喜んでいたな。
孫がピアノを弾いているのを見て、ニコニコするじいさん、なんてほのぼのした喜びかたじゃなくて、素晴らしい!ブラボー!といった、まさに感激したという様子で、興奮気味に喜んでいた。
音楽を愛した父は、孫のうち誰か一人でもいいから、音楽を趣味にして欲しいと言っていたと、母に後から聞いた。
ゴールデンウィークに実家に行った。弟一家も来ていて、孫が5人勢揃いした。
おやつの時間、幼稚園児から小学四年生までの男子5人が、テレビを見るような格好で、なぜか仏壇を見ながらゼリーを食べていた。
おじいちゃんと食べる。
最年長の子がそう言って仏壇の前に行ったら、全員がそれに倣ったのだ。
これを父に見せたら、きっと笑うだろうな。
でも見せてあげたい父は、もういないんだな。
戒名をしなかった父の位牌は、生前の名がそのまま刻まれている。
なので、子どもたちも、これがおじいちゃんの位牌だと、すぐにわかったみたいだ。
この子どもたちは、どのくらい父のことを覚えていてくれるだろう。
全てが燃えて消える
父が亡くなった。
先月の24日のことだ。
人が1人亡くなるというのは、大変なことなんだなあ。
様々な手続きをせねばならず、葬儀なども滞りなく行われるように、そればかりを気にしていた気がする。子どもたちが飽きてしまうだろうな、久しぶりに会う遠い親戚にご挨拶しないと、お手伝いして下さる人達に失礼のないように…。
父は冗談みたいに、棺の中にいた。
まあ、そんなに気にしなさんな、皆さん分かってるから。なんて言いながら、ガコッと蓋を開けて出てきたりして。
フワフワとしながら、そんな事を考えていた気がする。
そして父は骨になった。
嘘みたいだね。母と二人でそんな話をした。
骨はとてもしっかり残っていて、足の骨は太く、頭蓋骨も目鼻や顎がきちんと残り、ああ、父はやっぱり、死ぬにはまだ若かったんだなあ、と思った。
でも、あれが父の骨だってことが、なんだかよく分からない。
全部燃えてしまったのだ。骨を残して。
父の思いも全て消えた。脳が消えたのだから。
父の思いは消えた。孫をおもう気持ちも、私たち子をおもう気持ちも、妻である母をおもう気持ちも、父の気持ちは全部消えてしまった。
もっと生きたいと願い、先に逝くことを詫び、治らない事が辛いと訴えた最期の思いも全て。
思い出の中に生きるなんて嘘だ。それは私の思いであって、父の心そのものではない。
私が生まれてから、父が私を慈しんでくれたその心は、もうない。なくなったのだ。
父は消えてしまったのだ。
もうすぐ父が死ぬ。
もうすぐ父が死ぬ。
もう、何年も前から分かっていた事なのに、つらい。
苦しみながら、弟の目を見つめ、まだ死ぬわけにはいかん!と言った父。
継続鎮静を拒み、最後まで必死に呼吸を続けながら、かすれ声で、ごめんな、ごめんな、と言った父。
父は声帯がないので、声を出すことができない。
15年前に喉頭癌を患い、喉頭全摘しているのだ。
呼吸は鼻や口ではなく、喉に開けた穴からしている。気管切開というやつだ。
父は若い頃から音楽に親しみ、大学では合唱部に所属していた。
とても歌が好きだった。
なので声を失った時は、どれほど辛かったことか。
それでも明るく前向きだった。
気管切開の穴から呼気をフッと吹き掛けて、飼い犬を脅かして遊んだりもしていた。
転移もなく、無事に全快。
父は癌に勝ったのだ。
しかし、今度は勝てなかった。
特発性間質性肺炎。
肺の細胞が変質してしまい、機能しなくなってしまうこの病。
癌は治せる病気になってきた。
特発性間質性肺炎は治す方法がない。
5年前、風邪をきっかけとした急性増悪で呼吸困難となり、おかしな言い方かもしれないが、この急性増悪によって、間質性肺炎であることに初めて気がついたのだ。
この時も、家族は死を覚悟したが、ステロイドのパルス療法で、なんとか持ちなおした。
しかし、この病気はじわじわと、確実に進行する。
父は余生に入ったのだ。
それでもやはり前向きだった。
急性増悪から5年も生きた。
呼吸器内科の先生は、奇跡に近いと言う。
父は、あと5年、生きるつもりだった。
奇跡は起こらなかった。
父は今、病室で昏睡状態だ。
5年間、父はもう死ぬのだと、常に自分に言い聞かせてきた。
この病気の最期は、穏やかとは言えない。
きっと、とても苦しむ父を見る事になるだろう。
耐えられるのだろうかと、怯えていた。
父もきっと、怯えていたのではないか。
病気は違えど、呼吸不全で亡くなった父親を看取っているのだ。
随分まえだが、親父は苦しそうだったな、と呟いていた事があった。
意識を失うまで、懸命に呼吸を続けた父の顔に、怯えは無かったような気がする。
苦しくて、それどころじゃなかったのだろうけど。
皮肉な話だが、喉頭全摘をして、気管切開をしていたおかげで、食事や会話(口パクだが、少し音がある)で呼吸が乱れる事がなく、タンの吸引も、鼻ではなく切開された穴からできたので、このおかげで、少し時間が伸ばせたのかもしれない。
特に、呼吸を気にせずに食事を取れたのが、良かったと思う。
病院で、まだ父は生きてる。
意思の疎通はできないけれど。
実家に帰れば、いつものソファーの定位置で、父がニコニコ座って待っているのではないか。
まだとても、父の死を受け入れる事ができない。